コンピュータソフトといえば、自社専用に開発するもの。そんな認識が主流だった日本に、本格的なパッケージソフトを持ち込み、普及を促したのがビル・トッテン社長率いるアシスト社だ。同社成長の歩みは、日本のパッケージソフト市場成長の歩みでもある。
ところが上司は、トッテン氏の考え方に理解を示さなかった。そこでトッテン氏は会社を辞め、起業を決意する。時にトッテン氏、29歳の出来事だった。
■異国で巡り会った友のサポート
「辞めたいのならどうぞ。ドアはあっちだと言われたので、重役の部屋を出て、その足で以前から目星を付けていたソフト会社に行きました」
トッテン氏が向かった先は、当時アメリカで最もポピュラーなパッケージソフトを扱っている2社だった。すなわち『MARK IV』のインフォマティックス社であり、もう一社は『ASI-ST』のASI社である。
「御社のパッケージソフトを日本で売りたいと持ちかけると、両社とも興味を持ってくれました。テスト用のサンプルソフトをもらい、僕が日本で試しに売ってみる約束を取り付けたのです。見込みがありそうなら代理店契約を結ぶ運びになっていました」
上司に提案を拒否されてからわずか一週間も経たないうちに、トッテン氏は再び機上の人となる。しかし日本に戻り、いざビジネスを始めようとして初めて自分が置かれている厳しい状況に気づいた。
「市場調査をやっているときは、会社が通訳を付けてくれました。事務所も借りてくれていた。ところが、今度は何もかも僕が一人でやらなければいけない。その頃はまだ日本語も話せないし、そもそも会社を経営したことなどなかったのですから」
困り果てて相談に行ったのが、以前から親交のあったシステム開発株式会社の永妻社長である。永妻氏は話を聞きソフトビジネスの可能性をすぐに見抜いた。そしてトッテン氏を自社に誘う。
「永妻さんは言いました、俺の会社に入って、ソフトを売ればいいじゃないかと。僕にしてみれば、まさに渡りに船です。そこで最初の課題となったのが、二つのソフトのうちどちらを扱うのかを決めること。僕は『ASI-ST』が良いと思っていました」
『ASI-ST』『MARK IV』は、いずれもデータ・マネジメント・システムと呼ばれていた分野のツールで、主にプログラム開発の生産性向上を目的に使われるもの。実際問題、その性能は甲乙付けがたいものだったようだ。
「結論として『ASI-ST』を採用することになったのですが、ここで永妻氏は僕にはまったく考えられないとんでもない行動を取ります。結果的には、このときの永妻氏の行動が、我々の成功につながったのですが、あのときは本当にびっくりしました」
永妻氏が取った『あり得ない』行動とは何だったのだろうか。
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FMO第34弾【株式会社アシスト】
2010.05.20
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2010.04.30