人の数だけ、仕事の数がある。そして仕事には諸々の相がある。この日、私が思い浮かべたのは「求道としての仕事」、「ゲームとしての仕事」、そして「労役としての仕事」である。
―――『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
ヴェーバーはおよそ100年前に、やや控えめに「スポーツの性格を与えている」と表現したが、
現在では、営利活動は「スポーツそのもの」になった。
ついでに言えば、営利の獲得の仕方が、「カネ→カネ」と直接的な投機になった。
かつてのアメリカンドリームを体現したビジネス人たちは、
資本金を集め、事業を興し、利益を上げるという、つまり
「カネ→事業(モノづくり・サービス提供)→カネ」という流れだった。
(間にある“事業”は、雇用を生み、社会生活の基盤となるさまざまな財をつくりだす)
ともかくも、 「ゲームとしての仕事」 がここにある。
3)歯車労働者
1つめの「求道としての仕事」、
2つめの「ゲームとしての仕事」を思ったとき、
ふと、もう1つの仕事の姿が湧いてきた。
それは、チャーリー・チャップリンの映画『モダンタイムス』(1936年)の映像とともに湧いてきた。
チャップリン扮する労働者が、ぼーっとしていたら、
機械の歯車の中にぐねぐねと流し込まれてしまった―――あの映像である。
工場労働者が単純作業にまで分解された仕事を黙々とこなし、
生産機械の一部になっていくことを痛烈に批判したあの映画を
いま、私たちがDVDか何かで改めて観たとしよう。
すると、多くの平成ビジネスパーソンたちは、
「かわいそうになぁ、そりゃあんな単純な肉体労働を歯車のようにさせられちゃ
人間疎外にもなるよ。昔はひどかったな」と思うかもしれない。
しかし、よくよく考えてみるに、
チャップリンが描いた当時のブルーカラーも、
平成ニッポンの知的労働に関わるホワイトカラーも
問題の本質は変わっていないように思える。
単純な肉体作業が、多少複雑な知的作業に変わっただけであって、
依然一人の働き手は、大きな利益創出装置の中の歯車であることを思い知らされる時がある。
ここには、 「労役としての仕事」 がある。
私は眠りに入る前の頭の中で、これら仕事の3つの極を思い浮かべた。
ひょっとすると仕事にはほかにも極があるかもしれない。
(例えば「遊び」の極など)
いずれにしても、私たちはこれらの極と極の間の適当なところでうろちょろしている。
しかし、そのうろちょろの重心が、
「求道」の極に近いところなのか、
「ゲーム」の極に寄ったところなのか、はたまた、
「労役」の極のほうで沈み込んだままなのかは、けっこうな問題である。
【過去の参考ブログ記事】
●「道」としての経営・「ゲーム」としての経営
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2010.03.20
2015.12.13
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。