マリオシリーズや『Wii Fit』などで世界的な支持を獲得している任天堂の宮本茂氏。ゲームデザイナーとしての30年間の業績が評価され、第13回文化庁メディア芸術祭では功労賞が贈られた。受賞者シンポジウムでは、エンターテインメント部門主査の河津秋敏氏が聞き役となり、宮本氏が自身のゲーム設計哲学を語った。 [堀内彰宏,Business Media 誠]
ゲームを作るのは、漫画を描くのに近い
宮本 もともと小学校のころは人形劇の人形を作る人になりたかったので、今日も(文化庁メディア芸術祭受賞作品の)コマ撮りのアニメなんかを見るとドキドキします。中学校の時には漫画家になりたかったので、漫画家さんの原画を見てもドキドキしました。高校に入ってからは工学部に行こうと思って数IIIをとりました。でも、やっぱり美術が好きなので、美大に行こうと思った。分かりやすいですよね、「工学部に行きたくて、美大にも行きたかったら工業デザインしかない」という単純な流れで金沢美術工芸大学に行ったのです。
金沢美術工芸大学を卒業して、アーティストとして落ちこぼれてたのですが、「何か面白いものを作りたい」とずっと思っていたので、工業デザインを専攻していたことから「遊具やおもちゃを作りたい」と思って任天堂に入りました。
そのころ、任天堂はヘンな会社だったんですよ(笑)。トランプを作っている、カルタを作っている、花札を作っている、麻雀牌を作っている。それ以外にベビーカーを作っている、光線銃を作っている、ブロック玩具を作っている、ラジコンカーを作っている……。
その時、僕は「任天堂はトランプでもうけて、そのもうかったお金で好きなことをさせてくれる会社ではないか」と思ったんですね、ちょっと間違って入ったのですが、入ったらトランプはそんなにもうかっていなくて、「自分たちで何かしろ」ということになりました。入社2年目くらいから『スペースインベーダー』が大ヒットしていたので、「おもちゃを作ろうと思っていたけども、ゲームでも作ってみようかな」と思って始めました。
ゲームを作るのは、漫画を描くのに近いことなんですね。自分でコツコツ描けば後は印刷所がどんどん作ってたくさん売ってくれるということで、「これはいいじゃないか」と思ったのです。工業デザインだと、工場と交渉しながらプラスチックのモデルを作って、とすごく大変なんです。しかし、デジタルデータは漫画と同じように扱えると気付いて、「しばらくやってみよう」と思って始めました。
ビデオゲームを作るに当たって、ディレクターという肩書きを自分に付けました。自分で絵を描いて、ゲームを考えて、3人ほどのプログラマーに作ってもらう。プログラマーもどんどんアイデアを出してくれます。
当時は任天堂の中でゲームを作るチームがいくつかあったのですが、だいたい技術者が作るんですね。『スペースインベーダー』(タイトー、1978年)もそうなのですが、プログラムが組めないと作れない。プログラム以前にハードウェアが分からないとダメです。『スペースインベーダー』でも、部品をハンダ付けして得点の仕組みを変えていた時代です。
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宮本茂氏の設計哲学
2010.03.08
2010.03.01