「おれ、お前が好きや」なんて告ったときに 「うん、ウチも好きやで」と速攻、あっさり返すのと 「え・・・、ウチも。・・・・・好き」とはにかみながら答えるのとでは意味がかなり違う。言葉の不思議さです。この不思議さにコミュニケーションの真髄が秘められています。
あるいは「お前なんか、大っきらいだ」ってセリフについて。この意味だ
って『本当に大嫌い』から『本当は大好き』まで実に幅広いニュアンスを
秘めています。バリエーションの中のどのあたりが正解なのかは、その言
葉がどのようなシチュエーション(空気ともいいますね)で交わされたか
によるでしょう。
なんで、言葉はそんなにややこしい使い方がなされるのか。その理由を考
えるとコミュニケーションの真髄が見えてきます。『先生はえらい/内田
樹』によれば「コミュニケーションでは、意思の疎通が簡単に成就しない
ように、いろいろ仕掛けがある」とあります。
どういうことかおわかりになるでしょうか。
コミュニケーションの本質は継続性にあるということです。
もし相手のことをお互いに「完全に」わかりあってしまえば、それ以上何
を知る必要があるでしょう。「もうわかったから(何も言うな)」状態、
すなわち知る必要がないのだからコミュニケーションも不要です。
もちろん時間と共に人間は変わっていくのだから、一定の期間を経た後に
は変化、成長(あるいは退化)した相手と話したいと思うことはあるかも
しれません。しかし、人は基本的に新しもの好きで、移り気な生き物です。
いったん「こいつのことは、もう何もかもわかってしまった(と切り捨て
た)」相手と再び面と向き合うのは、優先順位から考えてずっと下位にラ
ンク付けされるでしょう。
ところが、いつまで経っても「この人にはまだまだ私の知らないところが
ある。おもしろい、魅力的だ」と思えば、その人とのコミュニケーション
を絶やしたくはないはず。知らないという謎めいた「感覚」は、知りたい
という「欲求」とコインの裏表の関係にあるわけです。
実は、この非完結性こそがコミュニケーションの核心なのです。
つまりコミュニケーションとは相手と何もかもわかり合うことではない。
もっと相手を知りたい、わかりたいと思うあまりに、相手との交流関係を
維持し続けることがコミュニケーションなのです。
とはいえ相手に自分のすべてをわからせないということは、何も自分を小
出しにするなんてセコいやり方を取ることじゃない。むしろ、その逆です。
相手と向かい合ったときには、いつも全身全霊を傾けて、力の限りを振り
絞って語る。その努力が自分の限界をほんの少しであっても超えさせてく
れる。話しに熱中しているうちに、自分がそれまで考えたこともなかった
ような話を口にしたりする。これがおもしろい。
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