「86歳にしてケータイ小説デビュー」と先月下旬に大きな反響を呼んだ、瀬戸内寂聴氏。一見、無謀とも思われるその挑戦の意義を考察する。
ケータイ小説になりきりながらも、自身のバックグラウンドと得意領域をたくみに活かしているのも見落とせない。ペンネームの「ぱーぷる」とは、近年現代語訳に力を入れている源氏物語の作者である紫式部から取っている。ケータイ小説の主人公の名前は「ヒカル」であり、これは光源氏だ。
ケータイ小説に込めたメッセージは寂聴さんの尼僧として、または、自らの人生を振り返ってのものでもあるのだろう。
<「源氏は自身の罪を悔い改めていない」と彼女は指摘する。「だが悪いことをしたら、それを悔い改めなければならない。だからヒカルに『悪いことをしたから幸せになってはいけない』というセリフを言わせた」>(前出ロイター・TIメディイアニュース)
高齢の高名な文学者にして尼僧である寂聴氏であるが、特に同じく高齢な人は彼女の前半生を批判的に語る人も多い。Wikipediaに記載されている経歴を見るとわかる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%86%85%E5%AF%82%E8%81%B4
夫と子供を捨てて年下の男性と逃避行の後、小説家デビューしいくつかの賞を得るも、その風俗的な作風に批判が集まる。また、その後も妻帯者と長い不倫関係を持つち、その体験をもとにした小説で作家としての地位を確立するなど、僧籍に入るまでは波乱万丈に満ちている。
しかし、ふと考えると、寂聴さんの前半生はケータイ小説にも似ていないだろうか。ケータイ小説は若い女性の主人公を中心として、お約束のようにセックスやレイプ、妊娠、また恋人の死などがものすごいスピードで進行するのが特徴だ。寂聴さんの人生の経年とは内容を異にするが、年長者が好感を持って語らないという点では類似点があるだろう。
「86歳にしてケータイ小説デビュー」という挑戦とその成果に注目が集まり、そのプロ根性としての「なりきり」にも感嘆するが、この小説と執筆から感じられるプロ根性はさらに奥くが深いものだと思う。
自らの前半生の経験も踏まえ、さらに僧籍に入ってからの信仰生活で見えてきたものも下敷きにし、得意の源氏物語から1000年前の恋愛生活の過ちを正すという大きなメッセージが「あしたの空」には込められているのではないか。
だとすると、寂聴さんのプロ根性とは、単に「なりきる」だけではなく、ケータイ小説という、本来のテクニックが活かせないフィールドでも自らのスタイルと主張を貫けることを体現しているのだろう。
人生の偉大なる先輩であり、プロの鏡としての姿から学ぶところは大きい。
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2008.10.08
2008.10.10
有限会社金森マーケティング事務所 取締役
コンサルタントと講師業の二足のわらじを履く立場を活かし、「現場で起きていること」を見抜き、それをわかりやすい「フレームワーク」で読み解いていきます。このサイトでは、顧客者視点のマーケティングを軸足に、世の中の様々な事象を切り取りるコラムを執筆していきます。