東大元総長の蓮實重彦氏が、入学式の式辞で述べた一説です。
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社会とは、いくつもの齟齬感や、違和感や、隔たりの意識が複雑に交錯しあう苛酷な空間にほかなりません。そこでの言葉は、あらかじめの同意の確認を目的としてはおらず、普段は隠されていながらもそれが総体として機能するのに不可欠なもろもろの異なった要素の組み合わせを、すなわち、複数の差異をきわだたせる役割を担っております。
言葉は同意の確認が目的ではなく、差異をきわだたせる役割ー
いかがです?この考え方。
そもそも、社会は異質なものが集団となり出来上がっています。
しかし昨今、この前提が把握できていないかのような方、および、そのような方が起こす事件が、どうも目に付くようになりました。
簡単に言えば、社会に対し、自分に同化するように求める人間が跋扈していないかーということです。
そもそもの社会とは、成員の異質性が前提です。
しかし、この前提が、現社会においては、子どものうちから教育されていません。きっと。
過干渉な家庭教育、そういう家庭の意見に蹂躙され真の教育を発露する余裕がなくなった学校教育、地域社会が崩壊したことによる社会教育の喪失、それらのものが複合的に重なり合って、現状が生まれていると推察されます。
自分が受け入れられていないーと思うことによる自殺者の高止まり、
逆ギレ殺人(予備校教師の生徒殺害がその典型ですね)、無差別殺人…
一例かもしれませんが、「一例でも社会の中であって欲しくない」ような出来事が、「散見される」レベルにまで達しているような気がします。
受け入れられないのは社会成立上の前提なんです。
でも、そのことそのものが「苦しいこと」ではありません。
受け入れられないからこそ、受け入れられるようにするにはどうすればいいかー
迎合する、という卑近な言葉から、自らが社会的価値を生み出せる素晴らしい人間に成長することまで、すべて社会で受け入れるための手段であり、その手段の行使こそ、なんともいえない人間の喜びではー
と、僕は思っています。
蓮見氏の式辞は続きます。
===(以下引用)===
社会の維持とその好ましい変化にとってとりわけ重要な機能を演じている大学もまた、その例外ではありません。
そこで求められている身振りは、ごく自然な共感でも安易な同調でもなく、科学的な思考や芸術的な振る舞いを始動せしめる本源的な力としての差異、すなわち「異なるもの」を前にして、そのつど新鮮な驚きを生産しうるしなやかに開かれた好奇心だからであります。
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