個々の人間、個々の企業、個々の国が、みずからの利益や快楽を最大化するように無分別に動き、負のコストを外部化するといった形の繁栄は、いよいよ無理がきています。そうした動きを外的な規制や法律で対症療法的に済ませること以上に、1人1人の「内なる律」による軌道修正が必要になってきているのではないか───そんな観点から、あらためて「成長」ということ、「仕事・事業における精神性」というものを考えてみたいと思います。
古代ギリシャから中世ヨーロッパに至る流れの中では、職業が哲学や神とつながっており、「プロフェッショナル(=神に誓いを立てた)」と呼ばれる人びとは、徳を施すという大目的のもとに職業上の知識や技能を用いるという意識でした。
ビジネスはスポーツ化し「精神のない専門人」が自惚れる
ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは、いまから100年以上も前に著した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で次のように書いています。
「営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋な競争に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格をおびることさえ稀ではない」。
彼の見立てはまさに現実のものとなり、いまやビジネスや仕事は、数量(利益額やシェア、定量化された価値など)を獲得しあうスポーツあるいはゲームになりました。獲得された数量はお金と直接的に結びついており、それが欲望を際限なくふくらませもします。
そうしたいびつに発達した資本主義経済の末期に跋扈し自惚れるのは誰か―――ヴェーバーは同著の最後の箇所で、それは「精神のない専門人、心情のない享楽人」だと喝破しました。
欲や能力をどんな目的につなげるか
欲自体は悪いものではありません。知識や能力もそれ自体は善悪どちらでもありません。資本主義というシステムも、お金という道具もしかりです。それらがどんな目的と結びつくかによって、よいものにも悪いものにもなりえます。それを統御するのがまさに精神性といえるでしょう。
今日のビジネス社会では、物事をうまくつくる、はやくつくる、儲かるようにつくることが至上命題になっています。いわば「長けた仕事」の追求です。しかしこのことの先にある組織・社会は、長ける者と長けざる者の分離が貧富の差へと形を変えて進み、個も全体も幸福にしないことが明らかになりはじめました。
経済的ものさしから外れ、欲望から外れたところでなされる「豊かな仕事」「健やかな仕事」「祈りの仕事」「誓いの仕事」が、「長けた仕事」に負けないくらい多様に生まれる余裕ある社会の実現。それこそが精神性のある社会といえそうですが、その壮大な取り組みはほかならぬ今後の私たちに課せられています。
コロナ後の世界、そして脅威が年々増す地球の環境・気候問題についてどう行動を起こしていくか。その根本の鍵は、私たち1人1人が「成熟の心」をもって「成長欲」を賢く制御できるかだと思います。
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2015.07.17
2009.02.10
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。