オンライン講義の難しさ

画像: 世界最古の大学:ボローニャ大学

2020.04.18

ライフ・ソーシャル

オンライン講義の難しさ

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/こういうご時世だし、大学の講義なんてネット中継でもいいだろう、と思うかもしれない。だが、機材よりもっと根本的な教育上の問題があるのだ。それは、古代以来、なぜ大学というものあるのか、その存在意義の根幹に関わる。/

こういうご時世だし、大学の講義なんてネット中継でもいいだろう、と思うかもしれない。だが、機材よりもっと根本的な教育上の問題があるのだ。それは、古代以来、なぜ大学というものあるのか、その存在意義の根幹に関わる。

まず最初に、講義と授業とを分けて考えなければならない。中等教育(中高)の授業においては、教科書や問題集が確固としてある。授業において、教師は、学生が自分で教科書を読み、問題集に取り組むのをサポートする。つまり、教師は学生たちの側にいて、それをリードしていく立場だ。だから、教師は、学生たちの様子を見ながら、逐次、話を前に進めていく。つまり、教師は、学生たちといっしょに教科書や問題集をやっていく。これは双方向のメディア環境さえ整えば、比較的、オンライン化しやすい。

一方、初等教育を考えてみよう。たとえば、習字や鉄棒。大人の英会話教室なども同じだ。ここでは、主体は絶対的に個々の学童本人で、教師は、その学習をサポートする立場にある。中等教育のように、教師がいくらやってみせたとしても、学童はできるようにはならない。実際に個々の学童本人にやらせて、その良い点、悪い点を指摘しながら、学童本人がスムーズにできるようにしてやる。これもオンライン化できないことはないが、何人も同時につないだところで、実質的には個別指導。だれかを指導している間、他の学童たちを待たせることになる。しかし、同じ場、同じ時にやってみる学校であれば、その間に学童同士が相互に学び合って、コツをつかむところがある。教師だけが全体を見ているタイプのオンラインでは、それが欠ける。

さて、高等教育、大学だが、じつはむしろ初等教育に近い。経済学などのように国際標準の教科書があり、それを体系的に学ぶ中等教育的な学科もないではないが、ゼミ(演習)や卒論指導は、個々の学生本人にできるようにさせるのが目標で、教員の立場は、あくまで学生本人が主体的に進める研究のサポートにすぎない。これをオンライン化したところで、ふつうのテレビ電話のようなものにしかならない。むしろ、古い通信教育のようにメールでやりとりして、赤の添削指導をするほうがましかもしれない。

もちろん大学には、大教室で行われる「一般教養」というものもある。その中には、中等教育と同様に、既存の教科書をなぞるだけの教員もいないではない。しかし、大学水準の一般教養というのは、ただ広く雑学知識を増やす場ではなく、あくまで上記のような学生本人の研究能力のための土台だ。本人自身が自分で研究に取り組む前に、これまでその専門分野周辺の研究というものがどのように行われてきたか、そこでどんな試行錯誤があったか、その意義を学び習うことに眼目が置かれている。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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