京都の魔窟:朱子学から古学へ

2016.07.22

開発秘話

京都の魔窟:朱子学から古学へ

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/江戸時代初期、京都は素性不明の浪人たちの吹き溜まりだった。そこに、土佐藩からやってきた極右朱子学者の山崎闇斎が塾を開いた。その向かいの材木屋の源吉(伊藤仁斎)は、神経を病み、引きこもっていたが、朱子学を吹っ切って古学を起こす。土佐藩のクーデターの後、闇斎は、将軍補佐の保科正之に取り入る。林家の弟子の山鹿素行もまた古学を考えたが、運悪く、保科と闇斎の逆鱗に触れ、死を覚悟しなければならなくなる。/


 仁斎は、自分の精神と思考の混乱の元凶が朱子にある、と気づいた。『論語』や『孟子』を理解するのに、道教に近い『易経』を援用し、これらをつなぐために、素性不明著者不詳の『大学』と『中庸』を取り込んで、四書一経の全文に出てくる同一文字を同一字義で解釈しようとする、などという朱子学は、どう考えても無理がある。だいいち、「命」が、いのち、という意味と、命令する、という意味があるように、同じ字でも、名詞に用いられるときと、動詞に用いられるときがあり、朱子学は、こんな初歩的な漢文文法すら無視して、強引な解釈を押し通している。


 これに対して、引きこもりの間に熟考に熟考を重ねた仁斎は、あくまで個々の断片の文脈を重視し、かつ、それらの断片に通底している言葉のイメージを模索した。たとえば「道」。孔子や孟子が「道」という言葉で教えを説くとき、どんなことを考え、どんなことを伝えようとしていたのか。朱子の注に依らず、あくまで孔子や孟子に即して問う、ということで、伊藤仁斎は、これを「古学」と呼んだ。


道というのは、みなが通るべき中庸の人倫。仁斎によれば、それは誠であり、忠信、すなわち、自分を偽らず、他人を欺かず、まっすぐなもの。けっして特別ななにかなどではなく、世間の人々との日常の交わりの中にあるもの。京都の中心を南北に貫き、多くの人々が行き交う堀川通りに面した大店に生まれ育った仁斎が、松下町での長年の引きこもりの末に、自分が本来、暮らすべき場として実家に戻って、同志会や近隣の人々との交際のありがたさを再発見したのだろう。しかし、通りを挟んで向かいの闇斎塾の無頼連中は、ジジババや女子供を相手に「ほけほけ」とアイソを振りまくのが道か、と、あいつの説くのは、敬は敬でも、ただの愛敬だ、揶揄した。



山鹿素行の危難


 家光の死後、その異母弟で会津藩主の保科正之(51歳)が、四代将軍家綱(1641~80)の補佐に尽力していた。そして、まるで自分自身の失われた実父(将軍秀忠)とのつながりを取り戻そうとするかのように、62年、羅山を継いだ鵞峰を長に、明暦大火以後、中断していた歴史編纂を、幕府主導で再開させる。かつての羅山のものと違って、『本朝通鑑(つがん)』は編年体。ここで改めて百王一姓、つまり王朝交代無く万世一系の日本というものが意識されるようになる。資料も、朝廷や他の大名から大量に借り出そうとした。ところが、これはあくまで幕府の事業であって、天皇の勅撰ではない。いずれも、あまり快い協力は得られなかった。

続きは会員限定です。無料の読者会員に登録すると続きをお読みいただけます。

Ads by Google

この記事が気に入ったらいいね!しよう
INSIGHT NOW!の最新記事をお届けします

純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

フォロー フォローして純丘曜彰 教授博士の新着記事を受け取る

一歩先を行く最新ビジネス記事を受け取る

ログイン

この機能をご利用いただくにはログインが必要です。

ご登録いただいたメールアドレス、パスワードを入力してログインしてください。

パスワードをお忘れの方

フェイスブックのアカウントでもログインできます。

INSIGHT NOW!のご利用規約プライバシーポリシーーが適用されます。
INSIGHT NOW!が無断でタイムラインに投稿することはありません。