京都の魔窟:朱子学から古学へ

2016.07.22

開発秘話

京都の魔窟:朱子学から古学へ

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/江戸時代初期、京都は素性不明の浪人たちの吹き溜まりだった。そこに、土佐藩からやってきた極右朱子学者の山崎闇斎が塾を開いた。その向かいの材木屋の源吉(伊藤仁斎)は、神経を病み、引きこもっていたが、朱子学を吹っ切って古学を起こす。土佐藩のクーデターの後、闇斎は、将軍補佐の保科正之に取り入る。林家の弟子の山鹿素行もまた古学を考えたが、運悪く、保科と闇斎の逆鱗に触れ、死を覚悟しなければならなくなる。/

京都:無頼浪人の魔窟


 松永久秀(弾正、1510~1577)と言えば、一代で成り上がり、一代で滅びた戦国大名の代表。どこで学を得たのか、書に優れ、能や茶を好み、室町管領細川家の家臣三好家の右筆(書記)となって重用されるようになり、1559年(49歳)には奈良大阪の間の信貴山に城を構え、興福寺を抑えて大和を統一。主君三好家を凌ぎ、65年には室町幕府第13代将軍足利義輝を二条城で殺害、68年には信長配下となるも、謀反を起こし、高価な茶道具とともに自爆死したとか。


 母方が下冷泉家ゆかりの入江永種(1538~98)は、幼少で父母を失い、父方の親族だった松永久秀の養子となるも、武人ではなく歌人となり、藤原惺窩の姉を娶って、風雅の道を楽しんだ。その子、松永貞徳(1571~1653)も、秀吉の右筆(書官)となったが、大阪の陣(1615、44歳)の後、京都所司代の計らいで京都に講習堂(春秋館、二条城東側の現ANAクランプラザホテル京都の入口付近、石碑あり)を開き、戦乱の時代が終わって隆盛してきた京都町衆子弟の教育に当たった。


 一方、江戸では、1611年、板橋の村大工の娘が男の子を生んだ。第二代将軍秀忠(1579~1632、33歳)が鷹狩の時に胎ましたのだ。やむなく信濃高遠藩3万石保科正光の子ということにし、31年、その後を継がせる。保科正之(1611~73)。第三代将軍家光(1604~51)は、これが自分の異母弟であると知ると、43年、会津23万石に取り立てる。


 だが、大坂の陣(1615)、島原の乱(37)や慶安の変(51、由比小雪の乱)も終わって、幕府が文治政治に転換し、過剰な大名やその家臣たちを整理するようになると、京都は怪しげな浪人たちの吹き溜まりになっていった。もちろん、再仕官を願うなら、各藩藩主たちのための参勤交代の上屋敷が揃っている江戸の方がいい。また、大阪にも米換金のために各藩が蔵屋敷を設けていた。一方、京都は、参勤交代の際でさえ、いずれの大名も避けて通る武家禁忌の地。敵方反乱方に付いて落ち延びた敗残武士、どこぞの家中で問題を起こして逐電逃走した犯罪武士などが、身元を隠し、再起を図るべく、大量に京都の寺や市中に流れ込んできたのだ。実際、キャリアロンダリングのためにも、京都とは最適だった。世はもはや武術を求めていない。寺や私塾、商家に潜り込み、筆と算盤、そして身辺言行を整える朱子学を学んでこそ、再仕官の道も開ける。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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