『生命を捉えなおす』(清水博)・『動的平衡』(福岡伸一)の2冊、そしてベルグソンの言葉、『徒然草』の一話から「生命・生きること」を改めて考える。
「生命には物質のくだる坂をさかのぼろうとする努力がある」。
たとえば丸い石ころを傾斜面に置いたとき、それはただ傾斜をすべり落ちるだけです。なぜなら、石ころはエントロピーの増大する方へ、すなわち、高い緊張状態から低い緊張状態へと移行するほかに術をもたない惰性体だからです。
ところが、唯一、生命のみがそのエントロピー増大の傾斜に抗うように自己形成していく努力を発します。坂に置いた石が、勝手に傾斜を上っていくことがあればさぞ驚きでしょうが、それをやっているのが生命なのです。
私は先のベルグソンの言葉と出合って以来、人は常に坂に立っており、その傾斜を上ることがすなわち「生きる」ことだと考えています。
生命の本質は坂を上ろうとする作用です。本質にかなうことは必然的に幸福感を呼び起こします。ですから私は、人間は本来、進歩や成長を求め、勤勉の中に真の喜びを得る生き物だと思っています。逆に、本質にかなわない滞留や衰退、怠惰からは、不幸や不安感を味わいます。
アランが『幸福論』で言った「人は意欲し創造することによってのみ幸福である」というのもここにつながってきます。
仕事や人生はいろいろな出来事を通して、私たちに傾斜の負荷を与えてきます。私たちはその傾斜に対し、知恵と勇気をもって一歩一歩上がっていくこともできるし、負荷に降伏をし、下り傾斜に身を放り出すこともできる。一人一人の人間が、生き物として強いかどうかは、結局のところ、身体の強さでもなく、ましてや社会的な状況(経済力や立場など)の優位さでもなく、各々が背負う坂に抗っていこうとする意欲の強さであると私は思います。
◆この一生は「期限付き」の営みである
そんな尊い生命は、とても“か弱い器”でもあります。仏教では、人の命を草の葉の上の朝露に喩えます。少しの風がきて葉っぱが揺れれば、朝露はいとも簡単に地面に落ちてしまいますし、そうでなくとも、昇ってきた陽に当たればすぐに蒸発してしまいます。それほどはかないものであると。
スティーブ・ジョブズは伝説のスピーチで「きょうで命が終わるとすれば、きょうやることは本当にやりたいことか」と問いました。私はこのスピーチを聞くと、吉田兼好の『徒然草』第四十一段を思い出します。第四十一段は「賀茂の競馬」と題された一話です。
京都の賀茂で競馬が行なわれていた場でのことである。大勢が見物に来ていて競馬がよく見えないので、ある坊さんは木によじ登って見ることにした。その坊さんは、
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2009.10.27
2008.09.26
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。