スティーブ・ジョブズが「禅」に傾倒していたと日本人は誇らしげに語るが、当の私たちはどれほど自国が育んだ思想・哲学を知っているだろうか。きょうはその1つ「因果倶時・因果一如」を見つめてみる。
道教(タオイズム)にも、「道を求めたければ、師を求めるな。道を求めたとき、師はやって来る」といったような言葉があったと記憶する。これもまさに、因果を一つのものとしてみている。ここで私は、ある言葉を思い出す。ケビン・コスナー主演の米国映画『フィールド・オブ・ドリームス』で出てくる有名なフレーズだ。
“If you build it, they will come.”
(それを造れば、彼らはやってくるだろう)
本質的には、それを造った時点で、彼らがやって来ることが決定しているのだ。
(現象面では時差が出るが)
さて、2月も2週間が過ぎようとしている。2012年が実り多き1年になるかどうかは、この2月の行動具合で決まってしまうととらえると、うかうかしてはいられない。「どんな原因を仕込むか」と「どんな結果が得られるか」は一体なのだ。
そう、そして、もっと言えば、「一日即一生」。一日一日という原因の積み重なりによって、一生がどんな果実となるかは決まる。一日のなかに、すでに、自分の行く末の姿はあるのだ。
〈その弐:善行を積めば宝くじに当たるか!?〉
昔から「情けは人のためならず」ということわざがある。他人に施した善い行いは巡り巡って自分に帰ってくるという意味だ。これは真実だろうと思う。
だから、私たちの中には日ごろから善いことをいろいろしていけば(=原因を積んでいけば)、将来、宝くじに当たる(=結果が出る)かもしれないと期待する人もいるだろう。
しかし、これを「因果一如」とは言わない。
日ごろ行う善行の“因”と、宝くじに当たる“果”はまったくの別の出来事だからだ。因と果が一対一でつながっていないと言おうか。
もし、私たちが何か人に善いことをしたのであれば、その行為と同時に自分の気持ちがすがすがしくなっている。そのすがすがしさこそが、結果・報いであって、これを因果一如と呼ぶ。
ちなみに、先ほどの「情けは人のためならず」をサポートする観念としては、「陰徳あれば陽報あり」という言葉がある。いずれにせよ、善い行いというのは、自分の境涯という土壌の肥やしになるようなもので、いつか自分が立派な花を咲かせ、実を結ぶためには、いくらまいておいてもよいものだ。
◆「真・善・美」の仕事はそれ自体が報酬である
さて、因果一如というコンセプトを「仕事・働くこと」に引き付けて考えるとどうなるか。
私たちは、働いたことの報酬としてお金をもらいたい。できれば多くもらいたい。しかし、「利」ばかりを追っていくと、「もっと多く、もっと多く」の欲望が加速する。そうなると逆に、少ない金額しかもらえないとなると、とたんにやる気がなくなる。
「これだけストレスを抱えながら働いているのに、これっぽっちの給料か……」と、少なからずの人たちが神経と身体を痛めながら日々の仕事をこなしている。金銭という外発的動機に動かされているかぎり、こうした状況は変わりなく続く。
次のページ◆ニッポンを強くするコンセプト・観念・哲学はすぐそこにある
続きは会員限定です。無料の読者会員に登録すると続きをお読みいただけます。
- 会員登録 (無料)
- ログインはこちら
関連記事
2009.10.27
2008.09.26
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。