いま魔法の杖があって、おまえさんは、“王国一賢い男”にもなれるし、“王国一ハンサムな男”にもなれる。さぁ、どちらを選ぶかね?
版元の蔦屋重三郎は才能の目利きだったかもしれないが、版元も商売でやっている以上、当然、多く売れるように仕向ける。写楽に「もっと写実的に描けないか」と圧力をかけたことは容易に想像できる。事実、「役者大首絵28枚」以降の写楽の絵はごく普通のものとなり、明らかに生気を失くし、陳腐なものに堕していく。
写楽は非凡なる絵の才能を持ち、非凡なる絵を描いた。無念なるかな、同時代の大衆はそれを評価できなかった。写楽ほどの才能をもってすれば、大衆好みのわかりやすい絵をちょこちょこと描いて、食っていくこともできたかもしれない。しかし、それは自分をだますことになるという気持ちが強かったのだろう。写楽のその後の人生は詳しくわかっていないが、一説には、人知れず画業の道を貫き生涯を終えたとも。
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アメリカの音楽産業は1960年代からオーディオ製品の普及に伴って、一気に拡大を見せる。音楽レコードはもはや一部の金持ちの趣味品ではなくなり、大衆商品になりつつあった。その起爆剤になったのが、ロック音楽の台頭である。
40年代からジャズ音楽界入りし、円熟の技が冴えるマイルス・デイビスもその渦中にいた。以下は、『マイルス・デイビス自叙伝〈2〉』(マイルス・デイビス/クインシー・トループ著、中山康樹訳、宝島社文庫)からの抜粋である。
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1969年は、ロックやファンクのレコードが飛ぶように売れた年で、
そのすべてが、40万人が集まったウッドストックに象徴されていた。
一つのコンサートにあんなに人が集まると誰だっておかしくなるが、
レコード会社やプロデューサーは特にそうだった。
彼らの頭にあるのは、どうしたら常にこれだけの人にレコードが売れるか、
これまで売っていなかったとしたら、
どうやったら売れるようになるかだけだった。
オレの新しいレコードは、出るたびに6万枚くらい売れていた。
それは以前なら十分な数字だったが、この新しい状況となっては、
オレに支払いを続けるには十分なものじゃないと思われていた。
1970年に『フィルモア・イースト』で、
スティーブ・ミラーというお粗末な野郎の前座をしたことがあった。
オレは、くだらないレコードを1、2枚出してヒットさせたというだけで、
オレ達が前座をやらされることにむかっ腹を立てていた。
だから、わざと遅れて行って、奴が最初に出なければならないようにしてやった。
で、オレ達が演奏する段になったら、会場全体を大ノリにさせてやった。
次のページ音楽の中味と賞は、関係ない。
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2009.10.27
2008.09.26
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。