私たちは、あまりにビジネス社会からくる効率・実用・功利主義の影響を受けていて、曖昧さを避け、揺らぎを嫌い、具体・客観・論理を奨励する。しかし、これはあくまで一方向への視点に過ぎない。
漏斗(じょうご)を2つ横にして合わせたような図は、送り手が送りたい内容を何らかの表現に変換して、情報として発信し、受け手がその情報を受信して、読解作業を通し理解することを示している。
この基本図をさらに詳しく考察していこう。図3はこの一連のコミュニケーションの詳細を描いたものだ。
送り手が送りたいことというのは、実は図に示したように、色がはっきりしている部分とぼやけてにじんだ部分とがある。前者は、送り手が具体的に考え明示できる、いわば「ソリッドな内容」であり、後者は、曖昧に考え明示できない、暗示に任せたい、「ファジーな内容」である。
それに伴って、表現される情報も実線部分(ソリッドな情報)と、にじみ部分(ファジーな情報)ができる。
そして受け手は、この情報を受信して読解するわけだが、受け手が理解することもまた、色がはっきりする部分とにじむ部分とに分かれる。前者は、送り手の情報を逐語訳的・具体的に把握する「ソリッドな理解」であり、後者は、受け手自らが創造的・観照的に情報を解釈する「ファジーな理解」である。
では、このコミュニケーションモデルを実例で考えてみたい。図4の受信例〈1〉は、ソリッド情報のみが伝達されるケースだ。『JR時刻表』は、送り手から受け手に対し、羅列した数値情報を届けるもので、曖昧さを許さないソリッドな内容→ソリッドな情報→ソリッドな理解を実現するものとなる。
受信例〈2〉は、そこにファジーな要素が入ってくるケースである。松尾芭蕉は「古池や 蛙跳び込む 水の音」と詠んだ。この句を詠んだとき、芭蕉は眼前に広がる自然を具体的に描写しようとした。それが図の色が明確に塗ってある部分=ソリッドな内容である。
しかし、実際のところ、芭蕉が眼前に観ていたのは、具象的な景色だけではない。むしろ直接目に見えない多くのことを感じ、それを伝えたいと思った。それは図の色がにじんだ部分=ファジーな内容である。
芭蕉は森に深く身を浸しながら、ソリッドに、そして、ファジーに思考を巡らせ、「五・七・五」という文字形式にそれを結晶化させた。
そして受け手である句の鑑賞者は、その「五・七・五」を文字通りに解凍して、芭蕉の目に映った(耳に聴こえたというべきか)景色を自らの心の中に再現する。これがソリッドな理解となる。
しかし、鑑賞者も、その記述通りの景色の再現で終えるわけではない。鑑賞者それぞれは、それぞれの想像力に応じて、その「五・七・五」の行間を膨らませたり、必ずしも芭蕉が感じた世界とは同じではない別の世界を感じたり、そうしたファジーな理解を行うのである。このように、一級の芸術作品は、作者側の優れたにじみ表現と鑑賞者側の優れたにじみ理解の両方がなされてはじめて成り立つのである。
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【ソリッド思考・ファジー思考】
2011.02.03
2011.02.03
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。