スキャンダル、悪口、揶揄…そんなものばかり取り上げて、語って、どうするんでしょうか。 また、「いわゆる耳にいい活動」ばかり取り上げて、語って、どうするんでしょうか。 これからは正義の話をしよう。 そんな社会がきっとハッピーだから。
本記事のタイトルは「これからは正義の話をしよう」です。「正義」とは、人の道として正しいこと、です。蛇足ですが、「主観」により決められるものにすぎません。
僕は、樋渡市長の「行為」について、すべてが「その時々の情勢に応じて正しく判断・決断できているかどうか」はわかりません。
ただ、彼から漂う姿勢を「正義」だと思います。くどいようですが、堂々と「欠点の指摘」をし、それが揶揄・悪口の領域ではないところが、そう感じるのです。
そして、「正義」がにじみ出る人を、もっと日本社会は話して、語って、取り上げていくべきだと思うのです。
同じ主観で、正義の反対「不義」、あるいは「悪」(←「善」の対義語ですが)があります。
人、そしてメディアは、こちらは散々取り上げます。
なぜか?多分楽だし、自分が批判の矢面に立つ恐れが極端に少ないからだと思うんです。
誰かが人を殴った…この「誰か」を「悪」というのは簡単ですよね。
しかし、殴ったのも、もののはずみ、かっとなって、あるいは正当防衛、その「誰か」の考えの「正義」のもの、であっても、人を殴ったその誰かが、これまでずーーーっと正義をしていたことは語られません。
語ると、語る人が不義のように周りは見ます。
僕が本気時で「樋渡市長を応援する」と述べることも、簡単じゃないです、正直。
彼の「行為」に対する反論が寄せられることが目に見えますし、逆に賛同のコメントが寄せられれば寄せられるほど、洗脳されている人たちが固まって応援しているぜ、的に見られてしまいますから、どうしても。
でも、「正義」を取り上げる雰囲気が、少しでも日本社会にあふれたら…という想いから、あえて取り上げました。その例として樋渡市長と、「樋渡市長を取り上げる」ことをやりました。
樋渡市長が「正義」と感じるかどうかは、読者皆さんの目で『首長パンチ』を読んでみていただくとして。
既得権益にぶら下がる方が楽です。僕だってそうです。
でも、それだと、間違いなく子どもの世代にはハッピーな社会が訪れません。
わかりやすい「不義」あるいは「不義っぽいこと」だけを語るのも、既得権益にぶら下がっていることと或る意味同義です。上述しましたが、「不義」を語るのは「正義」を語るより簡単で、かつ、「義」は主観で決められる以上、「不義を話す」と味方がつきやすいですから。これは既存の価値基準で自らを優位に立たせる=既得権益へのぶらさがり、とおんなじです。
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