私たちは果たして、衣食足りて「働く」を知るようになったのか? “小さな飢え”を超えて、“大きな渇き”に対する答えを求めるためのキーワードを挙げる。
となれば、誰しも「共通善」を意識するようになる。
では「共通善」とは具体的にどんなことか―――
それは大いに思索や討論を要する哲学の問題である。
組織体や個人によって、それぞれの「共通善」を志向する答えがあるだろうと思う。
それを考えるプロセスこそ、
「働くこと」の問題に意味論・価値論を取り込んでいることにほかならない。
私は過去の記事で「社会的起業マインド」の話題に触れたが、
社会的な意義や使命をもつ事業を起こしたいとする熱が高まっているのも、
言ってみれば「共通善」を志向する高まりであると受け取れる。
→参考記事:志力格差の時代〈下〉~社会的起業マインドを育め
●【バリュー・ステートメント】提供価値宣言
職業人として自己紹介するとき、次の文のカッコ内にどんな言葉を入れるだろうか?
―――「私は〈 〉を売っています」。
このカッコ内には、自分が売っている直接のモノやサービスではなく、
「提供価値」を入れてほしい。
例えば、私なら、「私は〈研修サービス〉を売っています」ではなく、
「私は〈向上意欲を刺激する学びの場〉を売っています」とか
「私は〈働くとは何か?に対し目の前がパッと明るくなる理解〉を売っています」となる。
これと同様に、我が社紹介もやってほしい。
あなたの会社は、その事業を通して何の価値を世の中に売っているのだろうか?
―――「我が社は〈 〉を売っています」。
→参考記事:提供価値宣言;「私は~を売っています」
●【アクティブ・ノンアクション;active non-action】
この言葉の意味は、
月々日々、忙しく動き回っているが(=アクティブ)、
その実、大した価値あるものを残していない(=ノンアクション)状態。
つまり「不毛な多忙」。
同類語として、
“busy idleness”(あくせくしながらも結果として何もしないこと:多忙な怠惰)。
多忙であることは必ずしも悪ではない。問題は「何に忙しいか」だ。
残業もすべてを一絡げにして悪だとはいえない。
意味のある残業や、やる価値のある残業はある。
ほんとうに大きな仕事をしようと思ったら、
お行儀よく定時の範囲で終えられるはずがない。
自分がほんとうに意味を感じた仕事に没頭し、気が付けば残業していた―――
そんなときは、本人もぐんぐん成長している。
そうした残業は大事な時間だし、
会社側も喜んでお金をつけてやればいい。
しかし、意味のない残業、やる価値のない残業もある。
生産性の低い「ダラダラ残業」、残業代目当ての「ズルズル残業」は言うまでもないが、
最もやっかいなのが「仕事に使われ残業」である。
この手の残業は、意味がないわけでもないし、
やる価値がないわけでもないので、いろいろな言い訳を伴って常態化してしまうのだ。
自分の目的や意味を持たず、ただただ業務責任を果たすために、
あるいは時間を仕事で埋めて、ある種の安心感、「仕事やってるゾ感」を得るために
残業を慢性化させる―――これが「仕事に使われ残業」だ。
いずれにせよ、忙しさを考えることは、やはりそこに意味や価値を問うことなのである。
→参考記事: 『アクティブ・ノンアクション』不毛な多忙
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【働くことの意味論・価値論】
2010.04.11
2010.04.08
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。