『間違いだらけの教育論』(光文社新書/諏訪哲二)。 世の中で語ることが憚れるような雰囲気が醸しだされ、なかなか語られていないことが、そこには堂々と記されており、深く頭を垂れながら読ませていただきました。 権威・権力「だけ」を振りかざすタイプの教師も実際にはいるでしょう。しかし、だからといって、教師には権威・権力が全く不要だ、と言うのは筋違いです。 慮ろう、「啓蒙」としての教育を―
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(ヘレンをテーブルにつかせ、お菓子を食べさせる行為を覚えさせる状況において、言う事を聞かないヘレンに対し、2人が取っ組み合いのような状態になったことに触れ)
これが「啓蒙」の教育の有機的な一部分なのである。サリヴァン先生は教育関係の初発が権威者による一方的な押しつけであることを承知していて、文字通り暴力でお菓子を食べる文化作法を押しつける。
(中略)
でも、あれは取っ組みあいではない。取っ組み合いとは、対等な者同士が肉体的な衝突をすることであろう。あれはちからのある中年の健常な女性が、盲聾のいたいけな少女に暴力をふるったのである。健常者の中年の女が、目も見えずまったく世界も自分も知らない少女に合理的とはいえない文化作法を無理矢理強いている。言葉は通じないから、一方的に身体の動きを規制し、従わせようとしている。あれは取っ組み合いなどではなく、強者による弱者の一方的な支配であり暴力である。母親が赤ん坊を(エロス性をもちながら)なおかつ無理矢理従わせているのと同じである。
まさに、これこそが教育の奥に隠されている暴力(強制、支配)の姿であろう。教育や親の愛という言葉(観念)はその根源的な暴力性を隠蔽している。
(中略)
まさに、教育的なコンテクストの初発は、支配―服従なのである。
(中略)
まずヘレンを近代的個人にしようとする「啓蒙」としての教育がサリヴァン先生によって発動されなければ、ヘレンの個人形成も、ヘレンの「生のシステム」(矢野智司)の作動もなかった。人現にもしそれぞれの生のシステムなるものが在るとしても、それは何よりも「啓蒙」としての教育によってその人間が社会的個人として発現しなければ作動しない。
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なんとなくお分かりいただけたのではないでしょうか、「啓蒙」としての教育ということを。
早い話、「それ自体を学ぶことが(生きる上で)大切なんだ」と気づいていない人間に対し、それ自体を学ぶことを自発的に促すのは本質的に無理である、ということです。
これには大いに賛同します。
もう一文、引用します。
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ひとが人類史や近代社会の必要によって求められる「啓蒙」としての教育と、すでに啓蒙されたひとが自ら選んで受ける教育とを区別する必要がある。
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おっしゃるとおりですね。
「必要によって求められる教育」は、辛い、キツイ、わけがわからない、そう感じるものです。
なぜなら自らが必要だと感じていないから。
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