資本主義自体は善でも悪でもない。一人一人が持つ「働くことの思想」によって、この経済システムは方舟にもなれば、泥船にもなる。
しかし、今回明らかになったように、
資本主義は、私たちの大事な民主主義を脅かしているのです。
ライシュ氏もそうですし、もちろん私もそうですが、
資本主義なんかやめちまえ!といっているのではありません。
おそらく、このシステムを土台にしてしか、当面、地球上の数十億人の経済は
回っていかないと思います(中国も事実上すでにこのシステムの上に乗っかっている)。
資本主義は基本的には優れたシステムです。
しかし、人間の欲望をエンジンにして稼働するところが問題なのです。
ですから、私たちには、それを賢く扱うための「思想」が要る。
言うまでもなく、一個一個の人間の中にそれが不可欠なのです。
アンドレ・コント=スポンヴィル氏が『資本主義に徳はあるか』の中で言ったように
資本主義のメカニズムは、それ自体、道徳的でも反道徳的のものでもない。
結局、それは経済を行なう人間に任されている。
(→関連記事はこちら)
だから、私たち一人一人の思想いかんで、
資本主義は“ノアの方舟”にもなれば、“泥船”にもなる。
* * * * *
思想なり哲学なり叡智なり、人間の賢さというのは
少なからずの人が指摘するように時代が下ってもさほど進化してはいない。
(科学技術文明の発達ともあまり関係がない)
特に、欲望の扱いに関しては、人類は古くから惑わされっぱなしです。
古今東西、宗教は、欲望をどうコントロールするか、そして死をどうとらえるか―――
この二大テーマを扱ってきたともいえます。
資本主義が個々の欲望をベースにするところから、
その「暴走→暴落→規制→新たな暴走」というサイクルは過去から営々と続いてきました。
そのサイクルが止まないのは、
人間がいまだ欲望をうまくコントロールできていない証左だともいえます。
渋沢栄一の『論語と算盤』は、昭和3年(1928年)の刊行ですが、
ここには現在と同じくマネー獲得を狙って投機に明け暮れる投資家や事業経営者たちが
あちこちで言及されています。
そして『論語』の思想で滔々と諭す渋沢の様子がみてとれます。
また、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を著した
マックス・ヴェーバーは(執筆した1904年時点で)、
「営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、
営利活動は宗教的・倫理的意味を取り去られていて、
今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、
スポーツの性格をおびることさえ稀ではない」と書いています。
つまり、経済がその本来の意味である“経世済民”からはずれて、
もはやマネーの多寡を競い合う体育会系ゲームになり下がったと言っているわけです。
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【マクロの視点を持つ:資本主義】
2009.06.05
2009.06.01
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。