「人生もキャリアも、ある意味“行き当たりばったり”でいいじゃないか」・・・私はキャリア研修でそう言い放っています。ただ、偶発を必然化する意識をもってのことですが。
◆哲学は偶然性をどう考えるか
偶然性は哲学の世界においても大きなテーマであり続けてきました。
『偶然性と運命』(木田元著)は、
幾人もの哲学者たちがそれをどうとらえてきたかをわかりやすく解説してくれます。
マルティン・ハイデガーは、独自の時間論の中で偶然をとらえます。
人間は、現在を生きるとき、未来や過去をも同時に生きている。
つまり、外的で偶然的なものとしか思われない現在のこの出逢いが、
あたかも自分のこれまでの体験の内的展開の必然的到達点であるかのように
過去の体験が整理しなおされ、未来に向かって意味が与えられる。
ハイデガーはこれを<おのれを時間化する>と表現しました。
また、日本の九鬼周造は、運命を
「偶然な事柄であってそれが人間の存在にとって非常に大きい意味をもつ場合」
と定義づけ、運命とは偶然の内面化されたものであるとします。
また、ヴィルヘルム・フォン・ショルツは必然化された偶然を
「運命の先行形態としての偶然」と言い、
カール・ビューラーはそうした必然化されたときの感覚を
『ああ、そうか!(アハ)体験』(Aha-Erlebnis)と呼んでいます。
ゲオルク・ジンメルは、
「事象を同化していくほどの生の志向をもたないばあいには、
自然性に流されて生きることになり、<運命より下に立つ>ことになるし、
内部から確固としてゆるぎない生の志向をもつ者は
<運命より上に立つ>ことになる」と言及している。
◆運命決定論と運命努力論との間(はざま)で
「人生においては何事も偶然である。
しかしまた人生においては何事も必然である」とは、
哲学者の三木清の言葉です(『人生論ノート』)。
なぜなら、「生きることは“形成”すること」であるがゆえに、
人間は、偶発や失望を必然や希望に変換し、形成しなおすことができるからだと、
三木は言いたいのだと思います。
例えば、人生、紆余曲折を経て、ある地点にたどり着いたとき、
来し方を振り返ってみると、
「ああ、あのときの失敗はこういう意味があったのか」、
「あのときの出来事は起こるべくして起こったのだな」
といった思いにふけるときがあります。
それがつまり、自分が偶発を必然に変えることができたということでしょう。
人間の運命に関しては、
何かの力で先天的に決められているとする運命決定論と
後天的な意志と努力でどうにでもなるとする運命努力論との
二元的な考え方がありますが、
実際のところ、その2つの間の無限のグラデーションなのだと思います。
まァ、すでに凡人・凡才として生まれ出てしまっている私にとっては、
先天的なこの凡運をいかんすることもできないので、
おおいに偶然を必然化することに注力し、
最大限自分をひらいていこうと思っています。
ひらく伸びシロは、見通せないほど広大にあると思います。
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2010.03.20
2015.12.13
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。