ものやサービスの値段は時代によって変わるものです。「高い」「安い」の基準になっている貨幣の価値も時代によって大きく変わります。さまざまな分野のものやサービスの「お値段」を比較してみましょう。 今回は、鉛筆などの文房具がテーマ。以前紹介した日本語ワープロの回でも触れましたが、現在、多くの人は、パソコンのキーボードに「入力」するか、スマホやタブレットを指で触って文字を入力しているでしょう。筆や墨、そして鉛筆がまったく使われなくなったというわけではないにしろ、日本語を書き表す方法がここ百数十年で劇的に変化したのは事実です。 今回は、主に近代以降の鉛筆を中心とした文房具の歴史と値段の変遷を、大ざっぱに追ってみましょう。 参考:佐藤秀夫:『ノートや鉛筆が学校を変えた』(平凡社)
明治時代に輸入された鉛筆は高級品だった
鉛筆の原型が発明されたのは、16世紀末のヨーロッパ。
木の軸に穴を開けて、黒鉛の断片を差し込んで使うというもので、芯を鋭くしたいときに軸ごと削って使うようなものではありませんでした。日本に渡ったのは比較的早く、鉛筆が徳川家康に献上されたらしいこと(家康の使っていた硯箱の中に保存されていました)、そして伊達政宗が竹軸に黒鉛を挟んだ鉛筆を持っていたことなどから、江戸時代にもごく一部の人は鉛筆の存在を知っていたされています。
本格的に鉛筆が輸入されるようになったのは、明治7年のこと。この頃には、製造法も進歩し、現在の鉛筆と基本的には変わらないものになっていました。
当時の輸入鉛筆は高級品で、輸入品を扱う「唐物店(とうぶつてん)」で販売され、明治10年代では一本6~9厘しました。「厘」は「銭」の十分の一で、6~9厘は、現在の貨幣価値に換算すると、百数十円程度でしょうか。
大正時代に主に高級官僚や製図技師などが使う最高級の輸入鉛筆は一本25銭しました。現在の貨幣価値では3000円以上でしょう。まだまだ庶民の児童が使うようなものではなかったのです。
明治10年には国内で鉛筆の試作品が作られるようになり、上野で開かれた第一回内国勧業博覧会に出品されました。勧業博覧会は、明治新政府がさまざまな産業を新しく起こすためのコンテストでした。
最初の国産鉛筆はシャープペンシルだった?
本格的に国産品が作られるようになるのは明治20年のこと。これに成功したのは、真崎仁六(まさき・にろく)。後の三菱鉛筆の創業者です。
ただし真崎が当初作っていたのは、「繰り出し鉛筆(はさみ鉛筆)」と呼ばれるもので、ネジを回して芯を出す仕組みになっており、今のシャープペンシルに似たものでした。当時の価格は一本1厘。興味深いことに当時の広告によると、このとき、鉛筆の需要は教育用としてではなく、官庁の事務用などが見込まれていました。鉛筆が普及し始めたのは学校よりもむしろビジネスの現場が先だったのです。商品名も「局用鉛筆」でした。
この後、三菱鉛筆は現在と同じような削り鉛筆を開発し、逓信省(現在の日本郵便)に一括で採用されるなど、明治30年代には国内のトップメーカーになり、鉛筆が教育の現場など一般に広く使われるようになりました。
さらに時を経て、国産鉛筆は順調に成長し、
●昭和5年:1銭
●昭和20年:20銭
●昭和38年:10円 ……
上記のように、相対的な価格もどんどん下がっていきました(ただし昭和24年まで価格は統制されていました)。国外に輸出されるようにもなります。
次のページ明治の小学生は「石盤」を使っていた
続きは会員限定です。無料の読者会員に登録すると続きをお読みいただけます。
- 会員登録 (無料)
- ログインはこちら
関連記事
2015.07.17
2009.10.31