今年(2018年)10月6日、83年の歴史に幕を閉じた東京都中央卸売市場「築地市場」。 営業最終日の市場の様子はニュースなどでも大きく報じられ、多くの人たちから閉場を惜しむ声が聞かれました。筆者自身も、築地市場には取材や買い物などで何度か足を運んだことがあり、昭和レトロの面影を残す場内の雰囲気が懐かしく思い出されます。 そして同月11日、築地から移転した豊洲市場が営業をスタート。昭和・平成の築地ブランドを受け継ぎ、次なる時代の豊洲ブランドを築くべく、市場関係者らのチャレンジがすでに始まっています。そこで今回は、昭和初期から日本の台所を支え続けた築地市場の歩みとともに、新天地で始動した豊洲市場の特徴や、今後の展開について見ていくことにしましょう。
昭和時代の築地市場~日本最大級の総合市場として急成長
築地市場(東京都中央区)の歴史は1935年(昭和10年)、関東大震災で焼失した日本橋の魚河岸が築地へ移転してきたことに始まります。市場の広さは23.1ヘクタール(東京ドームの約6倍)におよび、水産物・青果物を取り扱う日本最大級の総合市場として急成長を遂げました。
開場当初、市場へ集まる生鮮食料品の多くは、旧汐留駅の引き込み線から貨物列車で運ばれていたため、場内には列車を効率よく収容する扇状の駅舎(国鉄・東京市場駅)が建てられました。市場の一角に最後まで残っていた扇状の屋根は、その当時の名残りです。
その後、1941年に太平洋戦争が始まり、戦中・戦後にかけて食料品が配給統制となりました。その間は市場本来の営業ができませんでしたが、統制が解除された1950年以降、社会経済の復興とともに市場の機能も急速に回復。高速道路網の整備によってトラック輸送が進展し、全国各地から市場に荷が集まるようになりました。それに伴い、開場当初から利用されてきた貨物列車による入荷量が減少し、場内の国鉄・東京市場駅は1962年に廃止されました。
1970年代に入ると、漁業技術や冷凍技術の進歩によって、新鮮な魚が大量に水揚げされるようになり、1980年代には市場の水産物取扱量が年間80万トンに増加。場内は活きのいいマグロや魚介類であふれ、セリ場に並べきれないほどだったといいます。そして、品質を見定めるプロの目利きを経た魚は「築地ブランド」とうたわれ、「TSUKIJI」は世界にも知られる一大ブランドに成長していったのです。
平成時代の築地市場~外国人観光客も訪れる人気スポットに
しかし、平成時代に入ると惣菜や弁当などの「中食」が広まり、加工済み食品の需要が急増しました。商社や食品メーカーは、市場を通さずに安価な輸入加工品を直接仕入れるようになり、産地直送販売やインターネット取引も普及。社会的に「市場離れ」が進行する中、消費者の魚離れや漁獲量の減少もあり、築地市場の水産物取扱量は最盛期の半分ほどに落ち込みました。
それでも1日に取り扱う水産物は約480種類・1500トン、青果物は約270種類・1000トン、1年間の取引金額は約5300億円(2015年実績)と国内トップを誇り、とくに水産物の取扱量は全国の25%を占めていました。また、世界中に日本食ブーム・和ブームが広まった近年は、市場見学や買い物、食事に訪れる観光客が増加。細い路地に仲卸がひしめく独特の風情と活気が人気を呼び、マグロのセリ見学には年間2万人以上の外国人観光客が訪れたといいます。
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