読書には、「啓発の読書」「獲得の読書」「娯楽の読書」がある。ここでは、あらためて啓発の読書――著者の表現した世界を鑑(かがみ)にして自分の世界を耕すという負荷作業――についてまとめる。
さて、もっとも有意義ながら、もっとも力を使うのは、言うまでもなく「啓発の読書」です。個人においても、社会全体においても、この読書に向かう意欲が弱まっていることを感じるのは私だけではないと思います。
社会や時代をつくるものは、経済や文化、教育、政治、宗教などいろいろあります。しかし、その根本は、個々人に宿る「エートス」ともいうべき、気風・精神性にある。活き活きとした健全なエートスは「啓発の読書」なしには醸成されません。
個々人が古今東西の書物と一人向き合い、自分の内側を開き・起こさないかぎり、経済、文化、教育、政治、宗教からの施策などは、うわすべりするだけで、じゅうぶんな効果は出ない。
日本人はたいていが「読み・書き・そろばん」はできる。しかし、読むことを通して、自分を耕し、強くすることができなくなっています。パソコンやスマートフォンの普及で、仕事場でも電車の中でも、「読む量」は減っていないという分析があります。確かに「獲得の読書」「娯楽の読書」は、むしろ盛んになっているのでしょう。ですが、「啓発の読書」は敬遠され、多くの人はそこから逃げたがっているように見えます。
その理由は、良書を一冊手に取って、著者の表現した世界を鑑(かがみ)にして自分の世界を豊かに掘り起こすという負荷作業が、どこか面倒なのでしょう。世の中には、負荷なしに享受できる心地よいだけのモノ・サービス・コンテンツが溢れています。そっちに身をうずめていたいというのは無理のないことではあります。しかし、負荷を嫌ってばかりいたら、いつ負荷に立ち向かうというのか。
そうするうち、現実生活の悩みや苦しみ、不遇や事故などの負荷に遭遇して、「もう生きるのいやだ」ということになるのでしょう。
私は先週、移動の新幹線の中で、石川啄木の『一握の砂』を読み返してみた。あれだけの才能に恵まれながら、けっして報われることのなかった26年の生涯。啄木の自身に懊悩し、時代を先駆け、非運に抗おうとし抗いきれなかった吐露を彼の文字の中から汲み取れば汲み取るほど、私は力を得ます。
『一握の砂』は物としては、500円前後で買える薄い文庫本です。しかし、ここからは、ほぼ無尽蔵のものが耕せます。読書とはなんと手軽で安上がりな、しかし偉大な心の鍛錬機会でしょうか。
個人をよりよく変える、社会をよりよく変えるために、「啓発の読書」は不可欠です。だからこそ私は、事あるごとに、良書から力ある言葉を引用して、多くの人を読書に誘いたいと思っています。
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2009.10.27
2008.09.26
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。