「受け入れる」 善悪や道徳をフツウに弁えている人間が持たなければいけない大切なアクションの1つと、今日の様々なニュースを見て感じました。
草なぎさんの件、行為としては「分かる」けれど“その行為はやっちゃいけないよね”と思う、というバランス感覚が、たとえ自分が酩酊状態になっても“やっちゃいけないこと”をやらないでいる自分で居続けられるような気がしてなりません。
余談ですが、ミーハーなんで(笑)草なぎさんの謝罪会見も拝見しましたが、正直、素直、誠実、という意味で立派でしたよ、ほんと。
企業で不祥事を起こし、謝る(あるいは謝らない)企業代表者の会見で感じる正直、素直、誠実の平均値よりずっとずっと堂々と、つつみ隠していない感を受けました。
だから「また頑張ってよ!」という気持ちになりました。
もう1つ、悲しい事件ですが、大阪の死体遺棄事件。
聖香ちゃん「本当のお父さんのところに帰りたい」 母親ら3人逮捕(イザ!より)
正確な背景は分かりませんが、報道だけ見ると「(逮捕された母親の気持ちが)分かる」と思える部分がありました。
それは“「子どもより自分の時間を大切にしたい」と思う気持ちが誰しも発露する”という点です。
#最初に断っておきますが、だからと言って虐待なんて許しませんよ、絶対に。
子どもを授かってもうすぐ2年になろうとしています。
“子どものせいで自分の時間がとられる…”と、半ば子どものせいのように感じたこと、何度もあります。
そして、そう感じたことがゼロである保護者の方のほうが圧倒的に少ないと思います。
このような感覚を持ったときに自分はいつもどうしているか―
それが
・感じた“自分”を「仕方ない」と受け入れる
・しかし「そう感じること」は良くないと強く思う
という思考をもつこと。
だから、妻が同じように、子どもへの負のベクトルを発揮していることを感じたときには、同じように
・そんな妻を「仕方ない」と受け入れて
・「そう感じること」は良くないと強く思い
・「その瞬間」ではなく「日をおいて」、“あのとき余り状態良くなかったよね”と優しく伝える
それが旦那の仕事だと思っています。
だから、聖香ちゃんの事件、いや、これだけではなく、世の中で「児童虐待」という行為が発生したとき―
虐待という行為は許さない、そして、さすがに虐待レベルになると、その行為をした人間そのものを許せない、と思うのが自然だとは思いますが、「虐待するなんて信じられない」というレベルで“安易に”罵るのは「違う」んです、僕は。
虐待につながる過程で“自分のことを大事にしたい時間があったんだろうな”と想像しますから。
#想像できる段階で「信じられない」という言葉にはつながりません(少なくとも僕は)。
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