脳科学者、茂木健一郎さんが探究する「クオリア」の概念を、商品開発やマーケティングなどのビジネス現場が取り込んでみると何がみえてくるか。
トヨタの「レクサス」はよく健闘しているとは思いますが、
いまだメルセデスやBMWとの間にあるえもしれない差は、
やはりクオリアのふくよかさの差ではないでしょうか。
一朝一夕に埋めることはできません。
また、かつては、smartでcoolでrichなクオリアを醸し出していた
ウォークマンも、今では、そのクオリアがしぼんでいます。
単にひとつのハードウェアとして、店頭に並んでいるだけで、
特別なクオリアは感じられません。
以前のように、文化やライフスタイルを牽引し、時代の風を切るといった
エネルギーに満ちたギラギラしたクオリアがないのです。
私は、元来、日本人はクオリアにうるさい民族だと認識しています。
日本伝統の工芸品や建築物、芸能の世界をみればわかるとおり、
そこでつくられた形態、意匠、間、様式には
緻密で繊細、高い美意識に裏付けられた豊かなクオリアが満ちています。
民族のDNAとして、クオリア・リッチのものづくりの才能は素地として
どんな組織にも、そして個々の日本人に植え付けられていると思います。
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ただ、クオリア・リッチのものづくりの問題は、
ものづくりだけに留まらないところに留意しなくてはなりません。
つまり、たとえ、粋(イキ)なものをつくることができても、
その粋を感得できる人間が少ないのでは、結果的に少ししか売れないということです。
その商品が粋であることをうまく買い手の心の中に
リッチなクオリアとして立ち上げてもらうコミュニケーションが必要なのです。
クオリアは、主観的体験の質という“主観的”というところが重要で、
同じモノを目の前にしても、
Aさんの意識の中で立ち上がるクオリアと、Bさんの意識の中で立ち上がるクオリアは
違うわけです。
例えば、テーブルの上にあるツヤツヤの真っ赤なリンゴを見ても、
Aさんが感じているクオリアと、Bさんのクオリアには微妙な違いが出てしまいます。
もっと例えて言うと、
ドストエフスキーの文学作品は
客観的な評価として重厚で深い思想性をもつものとされていますが、
それを読者側が十全に読みこなすのは困難なことで、
Aさんが汲み取ることのできるドストエフスキーのクオリアと
Bさんが汲み取ることのできるドストエフスキーのクオリアには違いが出るのです。
「美はそれを見つめる瞳の中にある」という言葉のとおり
クオリアは客体側にあるのではなくて、
それを感得する人の側にあるものなのです。
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2009.10.27
2008.09.26
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。